リニア中央新幹線が静岡県の反対で着工出来ていません、ってJRが言っています、
静岡県からの質問に対してJRから技術的な回答が無いからです。
工事有りきで感情論の言い訳は有りました。
今年の大雨で工事現場より低い所に有る宿舎が流されました、
工事現場には道路が不通で行けません。
この辺りはプレートの境目で断層だらけ
中部横断道もフォッサマグナの西縁で
糸魚川-静岡構造線上で開通が遅れました。
報道も遅れただけを流すだけでなく
フィリピン海プレートと北アメリカプレートの境目の難所地帯であることは
しっかり伝えて欲しい、、、
JRには以前丹那トンネルで、痛い思いをさせられています、
一旦破壊された自然環境は戻って来ません。
難工事[編集]
丹那トンネルの工事は、1918年(大正7年)に予算770万円(当時)で着手され7年後の1925年(大正14年)に完成する予定だったが、約16年後の1934年(昭和9年)に総工費2,600万円(当時)で完成した。この工事期間の長さと膨れ上がった工費、事故による犠牲者67名(うち熱海口31名、函南口36名)が難工事を象徴している。
着工[編集]
1918年(大正7年)3月21日、熱海町の梅園付近の坑口予定地で起工式が行われた。丹那トンネルは排煙効果の高い、また脱線事故等に際しての復旧作業を考慮し複線型をオーストリア式で掘削するという当時の日本鉄道技術では画期的な工事だった。当初は国府津から熱海までの東海道本線支線の熱海線の起工式であるため小規模なものだった。
掘削では削岩機を利用し、また坑道照明用の電力が富士水電株式会社より供給される予定だった。しかし第一次世界大戦による好景気により電力価格が高騰したことで電力供給の合意に至らず、工事はカンテラ照明にツルハシを使用した原始的な手掘りで開始された。その後蒸気機関を利用した空気圧削機が採用され作業効率が飛躍的に向上した。
建設現場に電力供給が行われるようになったのは1921年(大正10年)の三島口への火力発電所建設による。照明が電灯に切り替えられたほか、牛馬に頼っていた余土輸送にも電気機関車が利用されることになった。大戦景気の反動で大不況となり電力需要が減少した富士水電からの電力販売の申し出もあり、火力発電所は停電対策用とし通常の電力は価格面で有利な富士水電からの供給を受けるようになった。
大量湧水[編集]
丹那盆地の地質構造から、トンネル掘削は大量の湧水との戦いだった。トンネルの先端が断層や荒砂層に達した際には、トンネル全体が水であふれるような大量の湧水事故も発生した。湧水対策としては、多数の水抜き坑を掘って地下水を抜いてしまう方法がとられた。水抜き坑の全長は本トンネルの2倍の15キロメートルに達し、排水量は6億立方メートル(箱根芦ノ湖の貯水量の3倍とされる)に達した。
トンネルの真上に当たる丹那盆地は、工事の進捗につれて地下水が抜け水不足となり、灌漑用水が確保できず深刻な飢饉になった[3]。丹那盆地では元来、稲作を主な産業とし、清水を利用したワサビ栽培もおこない、副業として酪農を行っていた。しかし水源不足により農作物が枯れ農地が荒れる被害が出て、鉄道省では対策として水道の敷設や貯水池の新設などを実施した。それでも十分な効果が上がらなかったため、1932年(昭和7年)になり農民らは県知事に訴え、知事の指示で耕地課農林主事であった柏木八郎左衛門が対策に乗り出して鉄道当局と交渉し、1933年(昭和8年)8月に見舞金117万5,000円が交付されることになった[4]。
現在でも、完成した丹那トンネルからは大量の地下水が抜け続けており、かつて存在した豊富な湧水は丹那盆地から失われた。例えば、湿田が乾田となり、底なし田の跡が宅地となり、7か所あったワサビ沢が消失している[3]
今の静岡県の副知事は地質の専門家です、国土交通技官、工学博士、
国土交通省大臣官房技術総括審議官でした、 |
JRから技術的な明快な回答が無い現状では工事の許可は出せません。
川は周辺の農地に潤いを与え、茶栽培には水が命です、
海に注いでいます、魚にまで危害が出ます。
凄く前から路線の迂回を求めていました、
ガンとしてJRはゴネて考えてくれませんでした。
今のコロナ禍で少しの移動時間の短縮は意味はないです、
災害時に1番弱い地盤に立地するリニア中央新幹線は災害時は使えません、
工事中止で良いと考えます。
親として自然を子供達に残してあげたいです。